PAHとは芳香族炭化水素のうち、同一平面上に3つ以上の芳香環が存在するものを特に多環芳香族炭化水素 (Polycyclic Aromatic Hydrocarbon, PAH)と呼んでいる。

太陽系内に広く存在する有機物: 有機物は地球上にのみ存在するものではなく、地球以外の太陽系内にもその存在が確認されている(例:炭素質コンドライト隕石)。天体表面に存在する有機物は、形成時から太陽風や宇宙線に常に曝され、分子構造が変化することが想定される。これを宇宙風化(Space weathering)と呼ぶ。

https://www.astroarts.co.jp/news/2001/12/20panspermia/index-j.shtml

炭化水素における宇宙風化の影響: 炭化水素に放射線を照射すると、C-C結合、C-H結合の両方が切断され、反応性の高い中間生成物が生成される。この中間生成物が互いに再結合し、未反応の炭化水素と結合することにより、結果としてH原子の遊離を引き起こす(炭化)。

炭化により、宇宙風化の進行した天体表面中の有機物に占めるC原子の割合は増加する。固有磁場の影響が小さい天体においては太陽との距離が近いほど太陽風の影響が大きくなるため、基本的に太陽系内の有機物は炭化度合の分布が太陽距離によって決定される(Hendrix et al.,2016)。

UV~可視領域におけるPAHの吸光曲線: PAHのうち、特に分子量が大きいものに関しては、UV領域に特徴的な吸収帯を持つことが知られており、地球上に存在するPAH混合物は波長210nm付近に吸収帯を持つ。この吸収帯が、星間減光曲線(星間ダストによる吸光スペクトルを描いた曲線)に現れる217.5nm吸収帯に対応するという仮説がある。

火星の衛星フォボス(Phobos)の表面にPAHが存在するという仮説: 星間ダストなど、太陽からの距離が比較的大きく、炭化の進行していない場所に存在が示唆されるPAHであるが、Mars Express探査機は火星衛星Phobos表面のUV領域アルベドを測定し、星間ダストにみらる波長217.5nm付近の吸収帯を検出した(Bertaux, 2011)。(ただし、この結果については測定方法自体に問題があったとする指摘があり、信頼性について疑問視する意見がある。より精度の高い情報が必要であろう。)

PAH仮説がPhobos起源推定に与える影響:火星衛星PhobosやDeimosの起源についてはJAXAの計画する 次期火星衛星探査計画(MMX)において、衛星の表面物質のサンプルリターンが計画されている。火星圏の進化過程を衛星の表面物質から解き明かそうとする試みである。

一方で、もしPAHがPhobos表面に存在することが実証されれば、太陽系内遠方にて形成されたPAH混合物を含む天体由来の隕石がPhobosに衝突し、降り積もった物質によってPhobos表面が覆われるという表面更新が比較的最近に起こっていることを意味する。従ってPhobos表面物質からPhobosの起源を推定するという試みの妥当性に対して、大きな影響を与える。(JAXAの計画に一石を投じることになる。)

PAH仮説の検証に必要な情報:将来的にPhobosのUV領域アルベドが十分な精度で再測定され、結果として星間ダストにみられるような波長217.5nm付近に吸収帯が確認された場合、この吸収帯がPAH混合物の寄与によるものであると示すためには、PAH混合物のUV波長域での吸収スペクトルの情報が必要となる。ただし、PAH混合物に関しては地球上で合成された物質と、宇宙空間内の曝露環境下に置かれた物質について吸光特性を比較した例がなく、単純に星間ダストやPhobos表面物質とPAHの吸収スペクトルを見比べることの妥当性が保証されていない。

実際、実験室合成した有機混合物を短期間(1年間)国際宇宙 ステーション(ISS)にて宇宙空間に曝露した試料を用いて、IR 領域の吸収スペクトルを曝露前後で比較すると吸光特性が変動することが報告されている(Sakon et al., 2017)。

被曝によるPAH混合物のUV領域吸収スペクトル変動の予想:UV領域においてPAH混合物の吸収スペクトル変動を被曝前後で比較したデータはなく、検証が必要である。

一般に石炭には波長200nm付近に吸収帯があり、この吸収帯は炭化度の大きい種類の石炭ほど長波長側に存在する傾向がある。この吸収帯は分子中のπ結合やσ結合の遷移エネルギーに対応し(Papoular et al 1995) 、PAHの波長210nm付近吸収帯も同様の起源をもつ。

従って地球上に存在するPAH混合物と比べ、被曝環境下にあり炭化が進行している宇宙空間のPAH混合物の吸収帯は長波長側に移動していると予測できる。

星間ダストと地球上PAHの吸収帯波長の比較: 地球上で合成されたPAH混合物のUV領域における吸光のピーク波長が約210nmであるのに対し、星間ダストにおける吸光のピーク波長は217.5nmである。

PAH混合物の吸収帯が被曝によって長波長側へ移動することを示すことができれば、星間ダストの波長217.5nm吸収帯がPAH由来であることを裏付ける手がかりとなる。

研究テーマ: PAHに属する化合物について、各種複数の試料を用意し、被曝環境下に置かれた試料と地球上で保管された試料の反射率をUV領域において比較する。これによって星間ダスト中においてPAH混合物が存在する可能性について検討する。

PAHの持つUV領域の吸収帯波長が変動する要因として、被曝による炭化以外にもPAHの電離状態による変化などが研究されており、それら別の可能性に関しても考察する必要がある。

有機物一般において被曝による炭化現象がどのように進行するのかを調査し、太陽系内の位置によって分子構造変化が生じるタイムスケールがどのように変動するのかを理解する。

 

実験に用いる試料:実験室内で合成され、国際宇宙ステーション(ISS)にて1年間曝露させたPAH試料(暴露試料)、同様に合成され実験室で保管された試料(非暴露試料)の比較実験を行う。(曝露試料、非暴露試料ともにPAHの単体で作られており、混合物ではない。)

実験手法:PAH試料の紫外領域反射率は0.1~1%程度であるため、反射率測定のための光源としては100-300nmの波長域で連続スペクトルを持ち、反射光が検出器に受かるのに十分な入射強度を持つ必要がある。この要請から光源には分子科学研究所の極端紫外光研究施設(UVSOR)の保有するシンクロトロンによるビームライン(BL3B)を用いる。

実験設備:  BL3Bによって作り出された波長100-300nmのビームをホルダーに取り付けた試料に照射し、反射光をフォトダイオード(PD)によって検出し、各波長での強度を測定する。測定波長域には酸素分子の強い吸収帯があるため、光路を真空にする必要がある(真空度は10-5~10-6 Pa にすることが可能である)。

試料、フォトダイオード(PD)はチャンバー中心軸に沿って回転できる。反射光は試料の表面状態によって正反射になるとは限らないため、試料ごとに最も反射強度の大きくなる位置にPDを設置して測定を行う。

測定結果と考察:曝露、非曝露それぞれの反射光強度を観測波長域での最大値を用いて規格化しているため、絶対値には意味がなく、グラフの形状に注目する。波長173nmおよび285nm付近の2か所ではほかの部分に比べ、局所的に吸収の変化が大きい。これらの局所的な吸光増加に関しては炭化による影響の可能性が考えられる。

測定結果と計算値の比較:測定されたCoroneneの反射率を用いて、吸光度を1-(反射率)として計算し、 Steglich et. al., (2011)の計算結果と比較すると、波長300nm付近のピークらしきものは見られるが、それ以外の部分については形状が異なっている。

測定方法に問題があった可能性や、計算値が仮定している情報などが今回の測定と異なる可能性などがあり、検討すべき点が多く残っている。(研究課題)

残された課題:

  • PAH混合物の有する波長210nm付近の吸収帯は、星間ダストの波長217.5nm吸収帯に対応する可能性があり、二者間の波長のずれを説明しうる現象の一つとして宇宙風化による炭化がありえる。宇宙空間内に曝露したPAH試料と非曝露の試料を用意し、100-300nmの波長域での反射率再測定が必要である。
  • 結果として、一般に炭化の影響として知られるようにUV領域での吸収が深くなる様子が見られたが、吸収ピーク波長の差異などは確認できず、全体的な吸光特性が過去の文献の計算結果とも大きく異なっていた。再測定が必要である。
  • もしこの吸収帯がPAH由来であり、なおかつPhobos表面の吸収スペクトルにも現れるものであった場合、Phobos表面は太陽系遠方で形成された物質で比較的最近覆われたことを意味し、火星圏の進化推定に対して重大な意味を持つ。
  • 今後の測定に際しては、実験の際に比較できるような過去の文献における計算結果を用意できればより有意義な測定が可能になる。
  • 今回測定できなかった様々なPAH試料に関しても今後測定を行うことで、PAH混合物における炭化の影響を明らかにしていくことを目標とする。